朧月夜と春の海

本の記録 学習ノート おもしろかった事 その他   

2018/5/28 東京 スカイツリー①

 翌日です。薄曇りの天気です。

 予定は前日の夜まであれこれ立てていました。全部回れるかわかりませんが、行けるところまで行こうと思います。 

 朝、テレビをつけたら『ゲゲゲの鬼太郎』が始まったので曲を聴こうと終わりまで視聴します。随分久しぶりに見たアニメは猫娘の変化が著しかったです。国会中継もあったのですが、この日に国会議事堂も見学する予定です。高円寺陸橋と日枝神社と、スカイツリーも。

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 相変わらず、何をお願いしようかなと考えていたのです。

 この日は、まずは高円寺に行きます。丸の内線の東高円寺で降りて、蚕糸の森公園を通ります。工事中だったのでよくわからないけれど、昔はもっと地面があって広かったような気がします。一時期近くに住んでいたことがあったのですが、もうそんなに月日が経っていたのかと驚きました。ほんの少し前のような気がします。

 

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 なんていうか、そのころから数年後と数年前まで記憶があやふやではっきりしない時期があるような気がします。『ダリアの帯』にあったセリフのように、「わすれます わすれます なにもかもわすれます なにもかもわすれて生きねばなりません」とあったように。あるいは、そのころ読んだ映画があり漫画にもなった『僕らはみんな生きている』(大手建設会社のサラリーマン・高橋は、社命により西南アジアの小国・タルキスタンに出張することになった。飛行機で約16時間かけて辿り着いた現地で彼を出迎えたのは、どこか怪しげな支店長の中井戸と、その運転手をしているセーナという現地の女性だった…。次第に現地での生活に慣れ、セーナに心惹かれてゆく高橋。やがてパスポートを紛失し、日本に帰れなくなってしまう。一巻の内容紹介(そしてテロに巻き込まれていきます。))にある、セーナがクーデターのニュースを聞いて、急いで帰国して命からがら家の前までたどり着いたときの回想シーンのセリフのように『「……すみません むごいことを思い出させてしまって」「いいの,この国じゃよくある事だし,気にしないで,それより作業続けて. 人間の脳っておかしなものでさ,どういう防衛機能が働くのか,正気をなくすほどのショックを受けると,一種のブレーカーが降りちゃうのね.」「ブレーカー?」「それがどういう状況なのかは確かにわかってて,フォクウィク(処刑)にかけられている人たちが誰なのかも確かにわかってるんだけど…でもそれが少しも哀しくないの,おかしいでしょう.目の前にあることなのに,映画の1シーンみたいに,まるでリアリティがないのよ.現実と自分との間に,透明な硬い膜ができたみたいな…….…そのあとのこともあんまり覚えてないんだ.同じ原理が働いてね.気がつくと,街のなかでうずくまっていて,ナカイドがずっとこちらを見ていた.」』私の人生にもある時期そういう作用が働いたようでした。

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 高円寺陸橋の写真を撮ります。蚕糸の森公園の門のところで、ここなら見覚えが確かにあると思いました。そのころの私のおもにしていたことは本を読むことで、他には課題に追われ、行動範囲が広かったわけではないけれど、それでも近くを散策してみたい気がありますが束の間で移動します。ここに来てみたかったのは、後になって気がついてそれがなかったら絶望したかもしれず随分救われて、私にパードレとも呼ばれている人に会いに行くような気がしたからです。

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 誰にでもテレパシーやそういう言い方が大げさなら虫の知らせというようなものあるとして、それが拡大して作用する時期があったとしたら、私はそれが酷いころ、デライのように『あまりにも多くの欲深い手が一つのツボに入れられている』ような状況を感じていて、それがどういう存在なのか私にはわからないけれど、もしかしたら私にまじないの能力というようなものがあると思ってそれらの人々にとってそれが状況を有利にするとても魅力的なパワーアイテムのように思われたからだろうか。占いとのかかわり方について、エスパー小林という人の本だったと思うけれど、占いには懐疑的だったけれど、人間にはバイオリズムというものがあるから、そういうのを知るために自分と相性のいいあっていると思う占いを参考にしてみるのがいいのではというようなことを書いてあって、なるほどと思ったことがある。私が今参考にしているのは、占いがあったっているとかよりも、たまに遭遇する人生哲学みたいなのが救いになったことがあって気にいっているのだけれど。その占いの本は、占いは簡単に結果が出るもので試してみて、一喜一憂したり鵜呑みにしたりする必要はないとわかりました。それに凶を避けて、昔の貴族のように方違えを繰り返しても問題や宿題の先送りや、幸運の先取りになるようだとおもいました。そういう超常現象的ななにか不思議な力があって、それが働く時期があるとしたら、私にとってのその力の働くバイオリズムのピークはもう過ぎたのだと思います。何らかの不思議な力があって、それらを生れた時に預かってきて誰かに渡すためだったのだとしたら、それは龍から見えるような人ではないかと思います。昔、自作のメモ帳で作った栞があって、それに書いてある言葉は、十善戒と、「ゆりかごから墓場まで知識を求めよ。知識を求めて努力するものは神に祈る。」マホメッド “人間を超える存在によって生かされる感謝”神谷美恵子 です。祈るときに私はこの言葉を唱えるときもあるのですが、知らずにそういうことでなにかに使われたのなら、諸々の事に諦めがつくように思いました。祈りの言葉は、キリスト教の祈りの載った小さな本で読んだ平和を求める祈りも好きで、そういうことを祈ったことのある人、そういうことを成し遂げる人にそれらの力が流れたのならよかったなとそうしたこともあったかなと今は思うこともあるのです。f:id:oborodukiyo22:20180528110138j:plain

 十年以内ぐらいでよく思い浮かんだイメージに、合わない歯車を無理に合わせよう合わせようとするのがあったのですが、それが見えない世界で、私を利用しようとする力の象徴のようなものだったのなら、合わない歯車を無理に合わせようとしても何も起こらないか、反発するか、壊れるかだと思います。昔、ものにすればというような言葉を聞いて驚いたことがあるけれど、その人はその時、何かの思惑や悪意があってその言葉を使ったわけではないけれど、そういうことをしようとする人もいるということを身近な現実として認識する機会だったということが言いたかったとういことで私のことをものにしたって、合わない歯車なら何も起こらないです。HONKOWAをいうオカルトの漫画雑誌を読むのですが、本能的にそっちではないと感じた直感を大切にしたほうがいいというエピソードが出てきて、そういう私の直感はずっとそれらの勢力にそれを渡してはいけません。それは私の役目ではないし『宇宙が私の魂に与えた進む道』でもありませんと分かっていたのかもしれません。それにその力がもらたすのは、棚ぼたの幸運ではなくて、昔話で読んだことのあるようにおもう、遺産をブドウ畑に埋めたと言い残して亡くなった父の言葉を信じて、畑を掘り返したら、土が良く肥えて豊作になったというようなことなのではないかとも思います。f:id:oborodukiyo22:20180528114723j:plain

 その必然があって歯車が回った人は既に回っているのだと思う。

 私は、何だか変だと違和感を感じながら『白鳥の湖』に出てくる黒鳥を、自分を救ってくれた白鳥と勘違いしたまま死ぬようなことにならなくて、良かったのだと思います。本当がないのはそれがいいことではなくてもとても悲しい事だから。その頃とても不安な人で加藤諦三の本をよく読んでいたけれど、これで大抵の人は騙せるなと騙った人のエピソードが何故だか思い出されます。私にはよく理解できなかった。f:id:oborodukiyo22:20181217225445j:plain

 以前、日本国憲法って実はとても素晴らしいんじゃないっていうような気運になったとき「永久保存版付録「日本国憲法全文」つき!公布から70年を経過し改正が争点として浮上する中、漫画史上初めての試みです!週刊ビッグコミックスピリッツ 32号 2016 年7月4日(月)発売」があり、読みたいなとおもって本屋に行くとすでに売り切れになっていて、それでも気になって本を探していてしばらくして『文学部で読む日本国憲法』著者 長谷川櫂 を読みました。その本でその時に特に印象に残っていたのが、「同じようにあらゆる国家は自分の統治を正当化する大義名分を必要とします。- 人間の世界は事実だけでできているのではありません。事実と同量あるいはそれ以上のフィクションでできています。そしてフィクションはときに事実以上に人を動かす力を発揮します。」の部分と「夏目漱石(1867-1916)の『三四郎』(1908)は日露戦争後を舞台にする小説ですが、登場人物の一人に「(日本は)亡びるね」と語らせています。」という箇所です。

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 2015年五月号の俳句の雑誌 (KADOKAWA)で、「俳句と歩く 最終回 どこへ消えたのか  浮田喜代子」を読みました。「私たちは昭和20年『8月15日正午、天皇終戦詔勅の録音放送で敗戦を知った。――あれから70年、日本は平和だと言え、8月15日の敗戦時と当時に魔法のように戦後の平和や自由が訪れたわけではなかった。――そんな「内地も戦場のあおりで生じた戦争被害者の人達の「一人」が戦災孤児であった。終戦直後の厚生省(現・厚生労働省)の調べでは、孤児12万人以上、うち推定3万5千人が浮浪児として野に放り出されたとのこと。実際にはその何倍かの数であったと言われている。(『浮浪児1945-』石井光太)。まとめて3万5千人ではなく、「一人」という人間の数え方で数えてあげたいと思うばかりだが、今もって、大まかな数でくくられる子どもたちだ。幼児から10歳そこそこの子どもが一夜にして親無し、家無し、一文無しの丸裸であの焦土に置き去りにされたのだ。みな私と同い年ぐらいの子どもたちであった。 草田男が聞いた〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやいしらねいやい」〉という浮浪児の独白、〈何がここにこの孤児を置く秋の風〉という楸邨の憤りと憐憫、波郷の見た〈浮浪児の散りては群るゝ秋の風〉という実態、たまたま人間探究派と括られた3人の句だが、今もこれらの言葉の入った句を目にすると、最初に読んだ折の動悸と同じような動悸が甦る。――「戦後の70年」という声が聞かれるようになればなったで、彼らは今も生きているか、生きていればもう高齢か、などど思う。そんな昨秋、ノンフィクション作家・石井光太氏の『浮浪児1945―』が出版された。サブタイトルに「戦争が生んだ子供たち」とあり、オビに「どこへ〝消えた″のか?」とある。 当時を知らぬ、私の孫ほどもちがう世代の石井氏にして、よくぞと思われる取材で、読むうちにつらくなって幾度も本を伏せた。読み終えて、かつて私が子供ながらに言うに言われぬ気分で彼らの詳細を大人に聞くことができなかったわけはコレだと直感した。わたしには彼らにはいない親がいる、その親が懸命に食べさせてくれている、彼らにはそれがないのだということが、ことばにはならない重りとして私にはわかっていたのだ。

 浮浪児たちは僅かばかりのいい大人と、そうでない大勢の大人に翻弄されながらとにかく生き残った。生きたというよりは、死ななかったのである。二年も三年も風呂に入ったことなどない虱だらけ垢だらけの身でどこかで何かを食べ、どこかで雨梅雨を凌いだ日々を過ごしていたのである。

 生きる手立てとして、靴磨き、モク拾い、ユスリ、タカリ、スリ、新聞売り、物乞い、麻薬、街娼やテキヤの走り使いなどを、こなしてきた。女の子は早晩売春に流れる。刈り込みという一斉収容のたびに大勢の孤児たちは〈散りては群るヽ〉を繰り返す。時折、彼らを助けてくれたり、やさしくしてくれたのは、彼らと同じくらいにつらい身で生きてきた街娼やテキヤであって、彼らをもっとも怖がらせたのは厚生課の役人、孤児院の大人たち、普通の市民だったのだそうだ。 

  炎天へ孤児の孤影を引つぱり出す 秋元不死男

  孤児にやる林檎の力手に乗せて

 一人ぼっちの孤児を引っぱり出す。この日、この子は生きていた。そもそも子どもたちが一人で戦争の世を生きるということは不可能なのだ。大変とか難しい、そんなものではない。子どもって意外にしぶといなどといえたものではない。

 猛火に追われ、母と水田の小道を逃避する途次、斜め後ろを行く人が焼夷弾の直撃で倒れた。事実、内地も戦場であり、死と隣り合わせだった。――70年間、空襲を受けることもなく、武器で他国の人を殺すこともなく、現在も進行中の他国の戦争を他事とし、余りを捨てるほどに食べて、ぬくぬくと着て、蒲団で寝るという暮らしに慣れてくると、そんな今がいつまでもつづくような気になる。それでいて、なんとなく厄介な空気が流れていることを多くが感じている。そんな昨今だが、かりにも次の戦争が現実のものとなったとしたら、私が受けた恐怖や惨状など、何ほどの事もないと言われかねないほどに恐ろしいもの、取り返しのつかない世界になることは必至である。

そんな思いと同じ思いで、だまって「負の昭和」を撮り続けているカメラマンに江成常夫さんがいる。――レンズが旧満州の現在の何もない空間の中にとらえているのは、そこで途絶えて埋められた「一人」、そこに残された残留孤児の「一人」なのである。――」

そのころだと思うのですが何で読んだのか忘れてしまったのですが、「兄ちゃん ラーメン食べてみたかったな。」と言ってある戦争孤児が亡くなったという話もなんだか忘れられずに記憶に残っています。

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 旅のテーマに江戸があるなということで、歴史の復習をしようと『忘れてしまった高校の日本史を復習する本』を読みます。江戸、幕末、明治維新と読んでいて、明治政府の中央官制の変化の表を何となく眺めていたときに、大きな扱いだった神祇官が1868~1871年まではあったのに1885年にはなくなっていました。学生の頃にその図を見たとしても、きっと特に何も思うことなく過ごしていたと思うけれど、現在は自分でも説明のつかない不思議なことがあったり、世の中の流れや時間を経てみて、長く続いた組織は腐敗するものだし、形骸化して意味をなさなくなったものもあったのだろうけれど、それだけ長く続いて守って来たものの中にはなくしてはならないものがあったはずで、それは現在のブータンが今でも保ち続けている何かとも似ているものなのではないかと思ったりしました。 

 

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 国会議事堂へ。乗り継ぎで移動する距離があると思っていましたが想像以上に歩きました。地上に出て、見学の申し込みに行きます。衆議院参議院とあり確認されますが、駅から出て近かったので、そのまま参議院の見学です。荷物検査の時、後から神社にお供えしようと開封していない日本酒を買っていたのをすっかり忘れていて、冗談なのか本気なのかよくわからない口調で飲まないでくださいねと釘を刺されたので神妙にハイと回答します。展示を見ていると時間が来て中の見学です。修学旅行は東京だったのですが、コースに入っておらず、住んでいた頃は思い浮かばなかったので初めて見学します。

 参議院議場を傍聴席から見学します。いつもTVでみている感じではものすごく広いと思っていたので、思いのほか広くないと思い意外でした。何て言うか、人と人との距離が親密な距離と言うか、マイクなしでも端から端まで会話が出来そうな。下から見るとまた違うのかもしれません。

 中央広間の辺りで、衆議院側から来る修学旅行生の集団がやって来たのでこちらで良かったと思っていたら、出る頃にはどちらもすごい人数の見学者に膨れ上がっていたので、早めの時間で良かったです。

 都道府県の木が植えられている通りを通ります。建物正面が見える場所に到着して終了です。

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 そのまま道路沿いにある憲政記念館内の霞ガーデンでふわふわ卵というのにつられてオムライスをいただきます。窓の外を眺めていたら、子供達がやってきて、どんどん増えていったので、遠足で来ていたようでした。昔読んだ漫画の影響で、独断と偏見で東京の子どもは高尾山に遠足に行くと思い込んでいたので、こういう場所にも来るのだと知りました。その様子を見ていて場所柄のためか、私の子供の頃は自動販売機で水を買うなど考えられない時代で、住んでいる場所も(潜在的にはあるけれど)、自分たちの責任ではない、不安や心配がより身近にあって、きっと言葉にできないけれど伝えたい、抱えているものもいろいろあるのだろうと思いました。