博多 小倉 2016/7/17 ①
翌日は大濠公園、福岡城、美術館、夕方から小倉祇園太鼓の予定です。
よい天気です。地下鉄で移動します。
堀沿いに福岡城に進み鴻臚館跡があり見学します。
古代(飛鳥・奈良、平安時代7世紀後半から11世紀前半の約400年間)の迎賓館に相当する施設だそうです。
堀の外側にはトイレがあり、展示スペースは随分あり画期的なことだったのかもしれません。
清潔は美徳であると少し前に本で書かれた箇所を読み、この頃から既に公衆衛生が大切にされていたようだと思いました。
大部分は空き地ですが、発掘した場所を展示館でみることができます。
当時の航路の紹介や陶器もありました。
長くどこにあるのかはっきりしていなかったようですが、大正時代に万葉集の古歌をヒントに福岡城内で古代の瓦や中国陶磁器が採集されます。
昭和62年、平和台野球場外野席の発掘調査で鴻臚館の遺構が発見され中山説が裏付けられたそうです。
中国、朝鮮、西アジアのイスラム系陶器や、ペルシャ系ガラス器の出土品などがあります。
国際港湾都市福岡(博多)の原点だそうです。
青磁 灯明皿です。
きれいなまま残っています。
マンガ『うつほ草紙』で俊華牙やラジャ船長が辿った航路はこれだろうかと眺めます。
遣唐使船の航路です。九州や沖縄とのつながりが深いようです。
遣唐使の乗った船です。お遍路をしているので学問僧と言うと空海を思い浮かべます。
奈良時代のトイレの様子です。
基礎掘です。
発掘された場所には降りられませんが、近くまで行けます。
烏の羽です。
福岡城跡に上っていきます。
展望台から周囲が見渡せます。
大きな池の真ん中に細い通り道があり、面白いなと思います。きれいな景色です。
ところどころ建物や出来事の案内板があるのですが、今回の旅ではある場所のエピソードでは足が止まり、この思いを知ってね。忘れないでと、ここに引かれたか呼ばれたかしたのかなと思いました。
『福岡城物語 二の丸(二の丸御殿・水の手・お綱門)
福岡城の二の丸は、大きく「二の丸」、「東二の丸」、「南二の丸」に分かれ現在地は東二の丸にあたります。現在は運動場(ラグビー場)になったいる北側まで石垣があって、「二の丸御殿」が建っていたようです。その南側は貯水地となる「水の手」でした。
「東二の丸」から扇坂を抜けると、現在は梅の名所として知られる「二の丸」へと続きます。この扇坂の近辺に「お綱門」と呼ばれる門がありました(扇坂御門か東御門かいなる門であるかは諸説あります)。柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされるといわれたその門には、恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。
寛永の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、采女という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役の浅野四郎左衛門に預けることに。浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、妻子を顧みなくなってしまいました。簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたちを箱崎の下屋敷に別居させて、はじめはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と本宅に下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走りますが、夫は登城していて留守。逆に屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしまいました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪をふり乱し、血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶えたといいます。
この門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。当院は福岡大空襲で焼失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。』
あるいは私が共鳴したのか。
でもなんだか少し気が晴れた気がしました。もう成仏していてこだわりはないのかも知れないけど、なぐさめられたのかもしれません。
ゴジラ展は映画館で上映されているときに観に行く感じで特に見たかった訳ではないのですが、『シン・ゴジラ』の映画を後から映画館でみて、ガイドブックを読んでからもう一度見に行けたらいいなと思うくらいおもしろかったので、みておいてよかったかもしれません。
福永武彦のファンでもあります。
過去から現在のゴジラの姿や、実物もおかれています。
特撮でゴジラと一緒に映るモニターがあり、小学生男子の次に並んで写してもらいました。
食堂で、企画展のゴジラランチというのがあり、せっかくなので頼んでみます。
見本をみて内容を知っていたのですが、なぜカレーとコーラなのか謎です。
映画館で飲みたい飲み物だからでしょうか。
とても暑い日だったので、コーラが似合う日でした。
常設展もあります。昔の祭事に使われたような仏像の姿や、焼き物がおもしろかったです。
『唐物茶入 銘 博多文琳』もあります。
なんの変哲もないようで、いつまでもあきのこない完成された形なのでしょうか。
ほかに置かれているのをみて再び見返してを繰り返して見ました。
『博多の三傑の一人、神屋宗湛(かみやそうたん)が所持していたもの。彼が行っていた中国貿易で入手したもので、文琳とは「りんご」の中国名である。
博多随一の名茶器として有名で秀吉が所望したが、日本の半分となら交換しても良いという条件に秀吉も断念したと伝えられる。
二代藩主忠之に献上し、黄金弐千両と米五百石の土地とが与えられた。』
『灰陶豚舎』があります。ミニチュアの土器の豚の姿がかわいいです。愛情を持って作られている気がします。副葬品のようです。
後漢 1~3世紀。現代の作品と言われても驚かないと思いました。
美術館はこれから改修工事をされるそうです。
ゴジラが美術館へ現れて人々が出口から逃げ出す映像を見た後に同じ場所に来ると、人物の彫刻の展示があるのですが、驚いているポーズにも見えて、服や靴を着てないと危ないですよと思いました。
池の真ん中を通る道が見えています。
草間弥生の黄かぼちゃがあります。逆光で画面が見えないまま写真を撮ったので、指が入ってしまいました。この写真しかなくて残念です。
『慶長年間、黒田長政が福岡城を建築する時、博多湾の入江であったこの地を外濠として利用、昭和2年ここで開かれた東亜勧業博覧会を機に造園工事を行ない、昭和4年県営大濠公園として開園したものです。』大きな池です。小さな帆付の小舟を走らせているようです。ラジコンヨットを楽しんでいるようです。
飛行機が見えました。池の周囲は約2キロの周遊道になっており、マラソンをしている人が大勢いました。
池の中央を通っている細い小道を歩きます。
なんだか不思議な感じです。
のんびりと日向ぼっこや昼寝をしている人たちも見かけます。
池のそばならんで午睡人と鴨
鴨を時々見かけます。この時は至近距離で人の側で鴨が昼寝をしていました。そっと側を通ります。
午後4時ごろの景色です。これから小倉へ移動します。